− 幽誕 −

 

 

 

 ─── 名前

 何かを定義づけると同時に、何かに力を与える。

 名前は言霊となり、名づけられたものに何らかの影響を与えるのだ。

 そして今ここに、新たな生命のためにつけられた「名前」があった。

 

 

 廃れた貴族の家に、一人の娘が誕生した。

「女の子だな……!」

 父親と思しき男は喜びのあまり、唇を震わせている。

 待ちに待った、若き夫婦の待望の第一子だった。

「ええ、ええ……」

 想像を絶する苦しみと痛みを乗り越え、産み出した赤ん坊は可愛らしく、産声を上げている。

「あなた、可愛らしい子ですね」

 息切れながら、それでも喜びを分かち合おうと、言葉を紡ぐ。

 元気に泣く赤ん坊を、家政婦が産湯へと連れてゆく。

 この慌しさはまだ続くのだろうが、夫婦の間では一つの区切りを迎えていた。

「ああ、そうだ。女の子なら」

「ええ、名前は……」

 生まれる数ヶ月も前から、二人で考え、決めた名前。

 女の子なら  ―――

「マリア(聖母)」

 

 

 マリアが生まれてから、七年の時が流れた。

「うわっ、揺れる!」

 少しばかりの恐怖が混じっているものの、背中に感じる暖かさでそれは緩和
され、マリアの心は大半、楽しさで溢れている。

 父母二人とマリアは、一緒に遠乗りをしていた。

 馬の上で、母の前に座らされたマリア。

「どう? 風が気持ちいいでしょう」

「うんっ!」

 手入れされ、長く伸びた髪が風に揺られている。

 雪のように白い髪を優しく、手ですく母の手を感じながら、マリアは快活に
笑った。

「何かさびしいものだな。私の方にも後で乗ってくれるか?」

 馬の速度を合わせ、横についた父。

「お父さんのほうには、帰る時に乗るよ」

 幸せな家族は、そのまま川沿いまで馬を進めた。

 先日に雨が降ったせいか、流れは強く、水量も増していた。

「え?」

 突然だった。

 馬が水しぶきを嫌がり、身を捻らせたと同時に、マリアの小さな体はスルリと
馬から落ちてしまったのだ。

「マリアっ!」

 慌てて手を伸ばす母。しかしすんでのところで、手を掴むことが出来なかった。

 そのままマリアは川へと沈み、流されてしまう。

「そんなっ……」

 浮き上がって顔を出したマリアだが、流れに飲み込まれ、思うように呼吸をすることが出来ない。

 すぐに後を追うように、川へと飛び込もうとする女を、男が止めた。

「待つんだ! こんな急流じゃあ、一緒に流されてしまう」

「止めないで!」

「馬で追いかけるんだ。流れが緩やかになっている所まで行けば、助けられる!」

 必死に止めようとする男の手を振り払う。

「その前にあの子が、溺れて死んでしまうわ!」

 静止の声を聞かず、女は自分の娘を助けるべく、川へと飛び込んだ。

 

 

 思うように呼吸ができない。

 水の上に顔を出しても、それを遮るかのように水が迫り、口の中に入ってくる。

 それでも何とか呼吸をしようと、もがいていたその時。

「ぐっ!」

 背中を強打する。

 川の土壁にぶつかったマリアは、打っただけではなく、裂かれたのか血までも
流していた。

 強烈な痛みと苦しさに、意識が遠のく。

「おか……さんっ……」

 助けを求めるかのように、声を出した。

 求めずにはいられない。

 幼いながらに、来られないだろうと分かっていても。

「マリア!」

 頭の中に響いた声に、急速に意識を取り戻してゆく。

「おかぁ、さん!」

 聞き間違いかもしれないと思いもしたが、それを払ってくれるよう、自分の身体を暖かさが包み込む。

 いつも感じていた、母の感触に泣きたくなる。

 だがそれを叶える事無く、またもや襲った衝撃が、母子共の意識を奪ってしまった……。

 

 

 白い世界だった。

 地は白く、また空も白い。

 遠くを見ても白一色。それを遮るものは何もない。

 その中でおぼろげに目をあけたマリア。

「我が子を助けるべく、自分の身を省みずにした行動は賞賛に値します」

 眩い光。

 そうとしかいえない存在が、マリアの母に語りかけていた。

 声をだそうとしてみたが、何も叶わぬらしい。ただ、この光景を呆然と見ていることしか出来なかった。

「それに伴い、あなたの願いを一つだけ叶えます」

 母の視線がこちらに向けられる。それはいつもと変わらぬ、慈愛に満ちた目だった。

「あの子が生きてくれること、それだけです」

「そうですか。ですが、それは叶えられません。マリアはすでに死んでいるの
です」

 死んでる? 何を言っているのだろうか。私はまだ、生きている。

「それでも、生きてくれることを望みたい」

 困惑で一杯だった。

 だってまだ、私は生きている  ―――

「分かりました。しかしそれが、マリアにとって苦痛の道でも、宜しいですか?」

「……乗り越えてくれると、信じます」

 そこまでは見ていられたが、引っ張られる感覚と共に、意識が遠のいてゆく。

「望みを叶えましょう。マリアに生を与えます。しかしその生は、人とは遠い
もの。異端の目で見られ、普通に過ごすことは叶いません」

 引っ張られてゆく中、頭にふわっとした、柔らかい物が被さってきたような気がした。

「また、この生は仮初です。仮初を繋ぐものを失えば、マリアは生を失うでしょう」

 そこまでで、マリアの意識は途切れた。

「願わくは。永遠の中で、見失うことがないよう」

 

 

 意識がまた、回復する。

 今度こそ身体が動く。そう思ったのだが、またもや身体は動かず、ぼんやりと
光景を見つめることしか出来なかった。

「う……っく……」

 抑えたような泣き声が聞こえてくる。

 この声は父のものだ。

 立ち上がり、視界に入ってきた父は、ボロボロになった母を抱きながら、泣いていた。

「お前は……」

 抑えた泣き声で、マリアを見つめるその目。

 まるで優しさはなく、逆に憎しみが溢れていた。

「お前は、聖母などじゃない」

 おぼろげな意識ながら、恐怖を感じる。これ程までに怒った父を、今まで一度として見たことはなかった。

「命を育み、与える。それが聖母なら  ―――」

 背を向け、母を抱いたまま、遠ざかっていってしまう父は、叫ぶように。

 その言葉を口にした。

「命を絡め、奪いとる。地獄の聖母(ヘルマリア)だ……!」

 

 

 

 

 

 

 

著者: 若葉 様







戻る