− 黒運 −

 

 

 

 全ての動物には、本能という危機感知能力が備わっている。

 野生の生き物にとっては、それが最重要な機関となるためか、特に発達して
いる。

 この空気を感じ取った虎が、どれだけの恐怖に見舞われたかは、推して測ることが出来た。

 四肢に最大限の力を送り、急ブレーキをかけた虎の瞳にうつるは、目の前の獲物を通り越して一点。

 外見は人間の小娘。

 そんな小娘がありえない空気を放っている。

 全身の毛が逆立つ。

 あの娘に近寄ってはいけない。

 無防備な姿をさらしている獲物が前にいるのに。

 後一歩で届くという距離であるにも関らず、後ずさりしてしまった。

 そんな時、ふと目のあった娘からは、

『死ニタイノ―――?』

 

 

 感じていた、束縛とも言えるほどの空気が解かれた時、後ろにいるはずの虎は
なく、前には平然とした黒い少女が佇んでいた。

 さっきのは一体、なんだったのだろう。

 帽子が何かをしたとは思えない。出来るのならば最初から、やってくれていたら良いはずだ。

 では誰がやったのかと考えれば、自然と家の入り口にいる少女しかいなくなる。

「……」

 先ほどの重たさを打ち払うよう、周囲は和やかな雰囲気を醸し出しているが、
実は見た目がそうであるだけで、私はまだ暗い森を抜けてはいないのではないだろうか。

「ひとつ」

 落ち込んでゆく心を推し留めるかのように、黒少女は一言だけ呟いた。

「え?」

 何を言わんとしているのか分からない。ひとつ? 自然と聞き返してしまった。

「……虎を追い払ったのは私。その貸しが、ひとつ」

 絶句してしまった。

 どうやらさっきの重苦しい空気は、やはりこの少女が出していたものらしい。

 だがそれに驚くより何より、少女の顔にマリアは何もいう事が出来なくなって
いた。

 まるで意地悪をして、楽しんでいるかのように歪んだ笑顔。

 まさしく擬態語で『ニヤリ』と表せる典型のような表情をしていた。

「あ、あの……」

 どうすればいいのか分からず、とりあえず他の事を口にしようとした時には、
すでに黒少女は家の中に入っていってしまった。

 どこまでもマイペースなものである。

「な、なんなのよ、一体」

 少しムカッとしながらも、家の扉が開けっ放しなのに気づく。

 入って来い、ということだろうか。

 逡巡したものの、久しぶりに会えた人間なのだ。

 仕方なくマリアは家へと向かった。

「おじゃま……します」

 礼儀として、そう口にしながらも家中の様子を眺めてみる。

 あるのはテーブルの他に、物を収める棚等。

 飾りっ気がなく、どこか物寂しい風を出していたが、ごく普通の家といった感じだ。

「……(ちょいちょい)」

 無言で奥へと呼びつける黒少女に、疑心暗鬼で近寄っていくと、突然帽子を奪い取られた。

「な、なにするの!?」

 急な事態に、思わず身構える。

 長く危険な場所にいたせいか、過敏に反応したマリアに不思議な視線を向けながら、ポイッと帽子を籠にほうった。

「汚い」

 またもや一言だけしか発さず、目だけで『脱げ』と強要してくる。

 汚いと言われたことにショックを覚えながら、自分を見てみれば、確かに
薄汚れ、所々は破けてしまっている。

「……だ、だからって」

「家の中を、そんな汚い身体で動き回られても嫌」

 スッパリと言い切られ、渋々と服を脱ぐ。

 手を差し出した黒少女に服を渡すと、どんどんと籠に放ってゆき、ついに裸に
なったマリアは浴室へと押し込まれた。

「もう、なんなの?」

 今はお湯が張られていないが、浴槽もある。

「ボタンが壁にあるから、それを押せばシャワーからお湯が出る。止めるときも
同じ」

 扉越しに聞こえてくる声に従って壁を見てゆけば、確かに出っ張りがある。

「……押すときはこう言う。ポチッとな」

「なんでよ!」

 思わずつっこんでしまったマリア。

 ペースを乱されながら、気持ちを切り替えてボタンを押した。

(キャーッケッケッケッケ!)

 お湯が出てくるのと同時に、浴室に鳴り響く声。

 思わずビクッと身体が跳ねる。

 一体何が……。

「……くくく」

 キョロキョロとするマリアを、少しだけ開いた扉の間から、ニヤリと見つめる
黒少女。

「っ!」

 やっとからかわれているのが理解でき、腹が立ったマリアは思いっきり扉を
閉めた。

「タオルは外に置いておくから」

 その言葉を最後に遠ざかってゆく足音。

「……はぁぁぁぁ」

 深い溜め息を零しながら、シャワーを浴びる。

 久しぶり。

 本当に久しぶりに浴びた暖かいお湯に、心は落ち着きを取り戻していった。

 とりあえず、まだ安心はできないけれど、あの黒少女は悪い人ではないらしい。

「意地悪だけど」

 ごもっとも。

 ただそんなことを黒少女に言っても、またもや失笑されるだけだと分かる。

 先程会ったばかりなのに、そう思えるのは不思議だった。

「いったぁ……」

 服が破れていた箇所や、そうでない所も傷があり、湯がしみる。

 それに引き換えても、このお湯の心地よさは格別なものがあった。

 

 

 一通り洗い終わり、浴室を出てみると、先ほどの籠の横にタオルが置いてある。

 それで身体を拭きながら、自分の服や帽子が無い代わりに、きちんと折りたたまれた服が置いてあるのに気づいた。

「これを着ろってことかな」

 体型が黒少女とほぼ同じだった御蔭か、サイズも合っているようだ。

 着心地は悪くない、逆に良いくらいで、紫色を主体とした服は、マリアの白い髪と合っている。

「……ほぉう」

 用意したのが自分であるのに、いざマリアを前にして、素直に感嘆の声をもらす黒少女。

「その、色々とありがとう」

 まずは感謝の言葉を伝えたマリアに、黒少女も頷く。

「別にいい。それよりも着てた服だけど」

 指をさされた方向に目を向けると、言おうとしていることが理解出来た。

 所々が破れているだけではなく、かなりの惨状になっており、ボロ布と言っても良いくらいになってしまっていた。

「帽子……? は一応まともだったから、洗って干しておいた」

 と言いながらも、他のも全て洗ってあり、干してあったのを見て、さらに感謝を感じていた。

「ううん、十分だよ。ありがとう」

「そ」

 端的にしか物事を言わないのが、黒少女の特徴らしい。

 聞きたいことがあるならば、自分から聞くしかない。

「今更かもしれないけど、私はマリアっていうの。あなたは?」

「ゼノグリア」

 ゼノグリアと名乗った少女は、マリアという名前を聞き、一瞬だが苦笑を
浮かべた。

 それに気づかなかったマリアは、さらに聞きたいことを羅列していった。

 どうやらここに住んでいるのは、このゼノグリアという少女だけで、大人は
いないらしい。

 親もいないという話を聞き、マリアは苦しい顔を浮かべた。

「ごめん」

 何に謝っているのか分からないといった表情をするゼノグリアに、マリアは
すぐに他の話題へと切り替えた。

 この家は森の丁度真ん中にあり、人里まで行く為には遠い道のりを歩かなくてはいけない。

 愕然とするしかなかった。

 まさか自分が来た道は、正反対ではなかったのだろうか。

 森の真ん中にいる、ということは端から中に進んでしまったということだ。

「……そろそろ、寝れば?」

 どうすればいいのか、という混乱した頭でも、急に何を言い出すのかと首を
傾げる。

「限界だと思う」

 ゼノグリアに手を引かれ、鏡の前に立たされたマリアの顔は、衝撃も手伝ってか、ひどい顔になっていた。

 マリア自身は忘れていたが、すでに睡眠をとらずに三日を過ぎ、四日を経過
しようとしていたのだ。

「あ……」

 疲労の限界であったことを思い出すと、急に睡魔が襲ってくる。

「……うん。そう、させて……もらうね」

 自覚すればするほど、様々なものが襲い掛かってくる。

 寝ろ。寝ろ。寝ろ。

 頭の中で誰かがそう連呼しているようだ。

「こっち」

 ベッドまで連れて行かれたマリアは、吸い込まれるように伏してしまった。

 ボフッという音と共に、瞼は閉じてゆく。

「……」

 ゼノグリアが何かを言っているようだが、もう何も聞こえない。

 人とは会えたが、まさか反対方向に進んできていたとは……。

 後悔が残るも、今は睡魔に勝てず、マリアは眠りに落ちていった。

 

 

「ちゃんと布団を被って寝て」

 倒れこんでしまったマリアは、そのまま寝息をたてている。

 やれやれと溜め息をつきながら、なんとかマリアの身体を動かす。

「……」

 マリアの頭の下に枕を入れ、一通りを終えると、そのまま部屋を立ち去った。

 先ほどまで話していた場所、テーブルの元まで行き、座る。

 水を飲みながらに考えることは一つ。

 あの虎。

 あんな凶暴なのが『こちら側』にいるはずはない。

 となれば、あれをここまで引き連れてきた者がいるということ。

 マリアしかいない。

 ならばマリアは『あちら側』からやってきた、ということか。

「……あんなのがね」

 大した力も感じないし、とてもではないが『あちら側』から無事に抜け出てきたとは思えない。

 いや、力ならある、か。

 視線は自然と、洗われ干されている帽子へと向かう。

 じっと見つめていると、帽子の目が動いた。

「……あんなのが『あちら側』から」

『あちら側』はまさしく地獄。

 領域を隔てられたかのように、『こちら側』と『あちら側』の情景は違って
くる。

 こちらが天国とするならば。

「地獄から這いずり上がってきた聖母様ね……ふふふ」

 大変興味深いものが来たものだ。

 浮かぶのは、楽しい事が始まったという予感。

「さて……、どうなることやら……」

 

 

 

 

 

 

 

著者: 若葉 様







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