− 白黒の鉦(後編) −

 

 

 

 不意にマリアは、奇妙な感覚に包まれた。


 何もかもがスローモーションとなったかのように見える。


「―――?」


 急にこんな状態となったのは何故か。


 それは無意識に感じられた気配のせいだった。


 どこか覚えのあるそれの方向に、目を向けてみる。


 男の後方。


 そこにはゼノグリアの家の前で遭遇した、怒りに満ちた琥珀の瞳が。


 忘れるはずもないその瞳は今、命を絶たんと男に迫っている。


 男は気づいていない。


 マリアが声を上げたとしても、間に合わないだろう。


 ……間に合わないというならば。


 男が殺される前に、殺すしかない。


 マリアの考えは父を守るために、そこへ帰結した。



「うぁあぁぁぁぁぁ!!」


 

 

 帽子と言い表してよいのだろうか。


 目や耳、口までついたそれは、マリアの頭にすっぽりと収まっている。


(オァァァァァ〜)


 緊張感の欠片もない鳴き声を上げる帽子には、もちろんのこと自意識がある。


 長く『あちら側』にいたマリアが正常でいられたのも、帽子の存在が大きい。


 言葉を理解し、反応する姿はマリアにとって、癒しとなっていた。


 そういった帽子の特質で、留意することがある。


 帽子は決して、自分から行動しないということ。


 今まで何らかの行動を起こしてきたのは、マリアの深層心理を汲み取ったものに他ならない。


 父に銃で撃たれた時、命の危機に際しても反応がなかったのは、それが所以で
ある。


 だからこそ。


 マリアの意思を忠実に再現するべく、いつ如何なる時でも最大限の力でもって、それに答えることが出来るのだ。


 

 

 太い枝の上で足をぶら下げながらに、ゼノグリアは一部始終を見ていた。


 猟銃を構えながら、まくし立てる男に辟易する。


 そして黙って聞いているマリアにも、うんざりとしていた。


(聞くに堪えない……)


 終わるまで意識を他に飛ばそうかと思い始めた頃、ふと視界に入ったものは、
自分にずっとくっ付いてきた気配の主。


 虎は男の後方へと回りこみ、襲いかかろうとしている。


 やっと面白くなるかと思った矢先だった。


 本能が告げる。


 ここにいては、ダメだ。


 ゼノグリアは少しの躊躇もなく、大きく飛び跳ねて約三メートルも離れた枝に
着地する。


 同時にある現象が起きた。


 マリアを中心として、急速に半球状で広がってゆく、どす黒い赤の瘴気。


 離れたのにも関らず、すぐそこまで迫ってきているそれを見て、ゼノグリアは枝から飛び降りる。


 そして地に降り立ちざま、迫り来る瘴気を手で払いのけた。


「……」


 ゼノグリアの周囲だけを避けて、未だに後方へと広がってゆく瘴気の中で、視線をマリアの方に転じてみれば。


 瘴気と同じくして、身体全体を真紅で染め、鬼のような形相で立ち尽くす。


 ヘルマリアの姿がそこにはあった。


 

 

 拡大を止めた瘴気は、包み込んだ物体に宿る生命をことごとく奪ってゆく。


 命ある全てのものから、それを奪う。


 例外となったのは、男とゼノグリアだけだった。


 まとわりついた瘴気を必死に振り払おうとして、もがく虎の姿は滑稽以外の何者でもない。


 すぐに息絶えないのは強靭な生命力の表れだが、それも時間の問題だった。


 段々と四肢から力が抜け、地に伏してしまう。


 琥珀の瞳は何を思うのか、マリアの目を直視した。


 深遠なる真紅の眼。


 底が見えないそれに、生涯二度目の畏怖を感じながら、虎は生命の歩みを止めたのだった。


 

 

『マリアに生を与えます。しかしその生は、人とは遠いもの。異端の目で見られ、普通に過ごすことは叶いません』


 母を最後に見た、あの白い世界での言葉。


『また、この生は仮初です。仮初を繋ぐものを失えば、マリアは生を失う
でしょう』


 なんとなく理解する事ができた。


 自分が持って生まれた元々の命は、最早ない。


 この瘴気に包まれながらも死なないことが、何よりの証拠だ。


 薄れてゆく瘴気。


 一番初めに目に入ったのは、永遠に動くことのない虎の死骸。


 そして次に映るは、父の唖然とした顔。


 あまりの出来事に、ただただ口をポカンとあけているだけの父。


 今日、何度目の沈黙だろうか。


 幾度も繰り返してきた、親子間の沈黙。


 含まれる意味はその度に様々だったけれど、もう終わりにしよう。


「私は ―――」


 感情がこもらない声とは、こういうのを言うのだろう。


 言う行為をしている自分と、そんな姿を見ている自分が、私の中で両立
していた。


「――― 私の名前はヘルマリア」


 私に相応しい名前かもしれない。


「命を育み、与えることはできずとも ―――」


 与えることなど出来ようはずも無い。


 何しろ持ち合せていないものだから。


 ならば。


「命を絡め、奪いとる。それが私」


 父は黙って聞いている。


 いや、聞こえてもいないのだろうか。


「今まで育ててくれて有難う」


 そんな父にかける言葉は何も無く。


「――― さようなら ―――」


 私は黙って父の前から、立ち去っていった……。


 

 

 随分歩いただろうか。


 気づいたら、目の前にゼノグリアがいた。


「……」


 どうやら奥深くまで来てしまったらしい。


 辺りを見回しても、『あちら側』の情景しかない。


「どうしたの?」


 まだ二人の私がいる。


 見る私と、言う私。


「……」


 抑揚も無い言葉に、ゼノグリアはどう思っているのだろう。


 でも今はこの言い方しか出来ない。


「ヘルマリア」


 身体がビクッとしてしまった。


 ヘルマリアと呼ばれただけなのに。


「……な、に?」


 動揺する心中を知ってか知らずか。


「ヘルマリア」


 ただその名前を反復する。


 私は……。


「……っ」


 二人いたはずの私が、いつの間にか一人になろうとしていた。


 二人いたから抑えられていたのに。


「……っく、ぅっ……」


「ヘルマリア」


 三度目で、ひとりになってしまった。


 

 

「えええぇぇぇぇぇぇん……っ!」


 ついに泣き崩れてしまったヘルマリアを、静かに抱き寄せるゼノグリア。


「……ヘルマリア」


 ヘルマリアという毎に大声を上げて泣く姿に、まるで子供をあやすかのように
接する。


 それはまるで、本当の母親のようだった。


「――― 良い名前。ヘルマリア」


 ゼノグリアの顔に浮かぶ表情は。


 優しい微笑みと。


 意地悪い微笑が両立していた ―――。


 

 

                         End…….


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

著者: 若葉 様







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