− 白黒の鉦(前編) −

 

 

 

「…………」

 絶句。

 たかだか一ヶ月ほどで、ここまで変わるものなのだろうか。

 ゼノグリアに教えてもらった道のりを越え、やっとついた我が家。

 没落した貴族であったため、豪勢な装いではない。

 それでも一般家庭よりは裕福な様相であった屋敷は、遠目から見ても酷い有様
だった。

 屋敷へと向かうマリアは庭園の中ほどを歩いていた。

 今まで手入れをされ続けていたのに、急にほったらかされ、惨めな風景となっている。

 一歩一歩が限りなく重い。

 もしかすると自分の家に似ている、違った所へ来てしまったのか。

 そんなことまでもが、頭の中をかすめる。

 ついに屋敷の入り口へとたどり着いたマリアは、不安に満ちた心で、扉を押し開けたのだった。

 

 

 川に自ら飛び込み、流された妻。

 途中から見失ってしまい、探し回った挙句に見つけた所は、鬱蒼とした森に少しばかり入っていった所だった。

 地に伏している娘と妻。

 目の前が真っ暗になってゆく。

「だからやめておけと、言ったのに……」

 自然と涙が流れる。

 そんな時、ふと気になることがあった。

 とてもではないが、直視できないほどの傷を負っている妻。

 対して何故か、娘は怪我一つない。

 恐慌状態の頭で、溢れてくる思い。

「お前は、聖母などじゃない」

 もしあの時、川に飛び込もうとしていた妻を力ずくでも止めていたら。

「命を育み、与える。それが聖母なら ―――」

 もしあの時、妻の代わりに自分が飛び込んでいたら。

「命を絡め、奪いとる。地獄の聖母だ……!」

 そんなことを認めるわけにはいかない。

 自らを守る為に。

 自らを保つ為に。

 

 

 

(きゅいいぃぃぃ)

 見た目は埃を所々にかぶっていたものの、案外滑らかに開いた扉。

 そこから見える物は懐かしいものばかり。

 自然と安堵してゆく心。

 そう、ここは間違えなく私の家だ。

「ただいま……」

 帰ってきた。

 やっと家に帰ってこれた。

 扉を閉めて、辺りを見回す。

 変わったのは外見だけではないらしい。

 数は少ないが、いるはずの使用人らしき者はおらず、ただただ閑散とした空気が漂っている。

 いつもはきちんと閉められているはずの部屋の扉も、開けっ放しになっていた。

 外出してしまっているのだろうかとも考えたが、それならば玄関の鍵が掛かっていないのはおかしい。

 立ち止まっていても仕方がない。

 マリアはひとつひとつ、部屋を確認してゆくことにした。

 部屋にもよるが、生活感が漂っている。

 どうやら誰もいなくなったわけでもないようだ。

 それが分かると、すぐさまにある場所へと向かった。

 両親が良く、くつろいでいた部屋。

 あまり広くなく、書斎といったふうだったのだが、二人はいつもそこで楽しそうに会話をしていた。

 閉まっていた扉を、内心ビクビクしながら開けてみる。

「……」

 そしてマリアの目に映ったのは、懐かしい父の後姿。

 思わず声が出なくなる。

「……誰だ。皆、出てゆけと言っただろう」

 懐かしい声。

 久しぶりにあった父。

 だがその様子は屋敷と同じく、影を濃くしていた ―――。

 

 

 娘を置き去りにし、妻だけを抱きかかえて屋敷に帰ってきた。

 使用人たちはすぐさまに何かあったのだと悟り、医者を呼ぶと言ったが、それを止めた。

「もう、息絶えている」

 妻の亡骸を預けた後、しばらく一人にしてくれと頼み、俺は部屋にこもった。

 何があったのかと、執拗に扉をノックする音や呼び声を無視し、イスに深く腰掛ける。

 様々な念が自分に襲い掛かってきた。

 後悔や罪悪感。

 それらから身を守るために、ブツブツとまるで呪文のように、ある事を口に出していた。

「……俺が奪ったわけじゃない。俺がやったんじゃない」

 そう、全ては運命だったのだ。

 俺に落ち度はない。

 妻は地獄の使者を葬る為に、我が身を犠牲にしたのだ。

「何も間違ってはいない」

 心がだいぶ落ち着いてくる。

 気づいた時には日が暮れ、新たな一日が始まろうとしていた。

「そうだ……。俺には恥ずべきことなど、何もない」

 姿を現し始める朝日が、まるでその考えを肯定してくれているようだった。

 

 

 後日、妻の葬式を慎ましく終わらせた。

 慕われていた、優しき妻の葬式。

 大半の者は涙を流していた。

 俺はそんな中、何故か妻の遺体が入った棺桶を直視できなかった。

 何故だ。

 わからない。

 考えれば考えるほど吐き気がし、その場で意識を失った。

 

 

 目を覚ますと、看病してくれていたのか、使用人の一人が目に入った。

「旦那様、大丈夫ですか?」

「ああ……」

「奥様の事で気落ちなさるのは分かりますが、どうか心を強くお持ち下さい」

 そんな言葉に生返事を返しながら、あることがふと気になった。

 妻が死んだ。

 その衝動で、今俺はこうなっているのか。

「旦那様、とりあえずお食事に致しましょう。準備が整いましたら、いらっしゃってください」

 言われるままに衣服を整え、ふら付く足に檄を飛ばしながら、食卓につく。

 出されたのは、起きたばかりということを気遣っての軽い物。

 だが見ているだけで、食べようとは思わない。

 空腹なのは間違いないのに、何故食べられないんだ。

「……お口に合いませんか?」

「いや……」

 どうして自分を保っていられない。

 俺に落ち度はないと。

 天もその考えを肯定してくれていたはずだ。

「申し訳ございません。すぐにお下げして、他のものを」

「違うんだ!!」

 急な大声に驚く使用人をおいて、俺はその場を足早に立ち去った。

 

 

「何が……何が……っ!」

 考えれば考えるほど、耳障りな声が聞こえる。

(間違っている)

「俺は間違っていない!」

(間違っている)

「うるさい……」

(間違っている)

「うるさいっ!!」

 何がこうも俺を苦しめるのか。

 妻を助けられなかったのは、俺のせいではない。

「旦那様、ご無礼を致しました。申し訳ございません……」

 使用人たちの優しさは、逆に俺を苦しめた。

「……マリアか」

 まるで悪夢の中にいるかのよう。

「俺は間違っていない! お前はやはり、地獄の使いじゃないか!!」

 そう、呪いだ。

 こんな呪いに屈してたまるものか。

「俺は負けない……、負けるものか!」

 

 

 煩わしいと使用人たちを屋敷から追い出した男は、日々部屋にこもっていた。

 日の出が一番早く見える部屋。

 ここは男の妻が一番、気に入っていた部屋だった。

 今日もただ、生きている。

 最小限の食事をし、部屋にこもった男は、まるで威嚇でもするかのように、虚空を睨みつける。

 毎日、これを繰り返していた。

「負けてなるものか……」

 一つの怨念を頼りに。

 そんな時。

 誰もいなくなったはずなのに、部屋の外から足音が聞こえてきた。

 追い出された使用人の中でも、長く仕えていた者達。

 それらが時折、食料を屋敷に運んでくるのだが、今日もそれなのだと男は思った。

 だが足音は次第に、この部屋へと近付いてきた。

 ついには扉まで開けてきたものだから、さすがに煩わしく思った男は振り返り
ながら言った。

「……誰だ。私以外、皆出てゆけと言っただろう」

 そして目に入ってきたものは、男にとって。

「お、とう……さん」

 居てはいけないものだった ―――。

 

 

 

 

 

 

 

著者: 若葉 様







戻る